2016年




ーーー12/6−−− ダイバー・ウォッチ  

 
 ダイバーウォッチを一つ持っている。以前勤めていた会社のヨット部に入った頃に買ったので、もう40年近くなるか。

 普段は滅多に使わない。山に登る際に装着するくらいである。登山の際には便利である。堅牢だし、防水性は完璧(150m防水)、そして何より外周リングが付いているので、経過時間の確認がやり易い。

 何故普段使いにしていなかったか。少々重くてかさばるという理由もあったが、ベルトがゴム製だったので、使いにくかったのである。ゴムがけっこう硬いので、締めると手首が横方向に圧迫されて感じが悪い。山でならそれくらい気にならないが、普段使いではちょっと抵抗があった。

 最近急に思い立って、金属バンドに交換した。ネットで格安のバンドを見付け、サイズが合うものを取り寄せた。付け替えて、長さを調節した。こういう作業には慣れている。交換し終わったら、印象ががらりと変わった。専用のバンドでは無いので、付け根のところに若干の隙間が開くけれど、気にするほどの事ではない。

 金属バンドにもいろいろあるようだが、たまたまこのバンドは曲がりが柔軟で、コンパクトに折り畳むことができる。小さな入れ物を作って卓上に置いたら、良い納まりになった。


 バンドは替えても、時計本体の大きさや重さは変わらない。普段使いにどうか、試してみた。そんな事はほとんど何の支障にもならなかった。バンドを替えるだけで、腕に馴染み、使用感は想像以上に良くなったのだ。これからは、この時計を着けて出歩くことになるだろう。これまで外出用に使っていた時計と比べて、文字盤が見易く、余計な表示が無く、シンプルで使い心地が良い。

 先日時計修理の専門店へ持ち込んで、買ってから一度も交換していなかったパッキンを取り換えて貰った。お店の人は、オーバーホールを勧めた。これだけ長い間放っておくと、内部の油が固まってしまって、動作不良になると。しかしオーバーホールはそこそこの料金が掛かる。迷ったが、お断りした。パッキンの交換は、550円で済んだ。

 実はこの時計、セイコーが作ったダイバーウォッチの初期のもの。ダイバーの命がかかっているので、セイコーが技術を尽くして完璧なものを作ったとのキャッチフレーズだった。その後クォーツの製品が登場したが、これは自動巻きである。「クォーツなんて、潜っている時に電池が切れたらどうするのか?」と思ったものだった。

 ネットで調べたら、マニアの間では結構高値が付いているらしい。買ったときの5倍程度の価格も見られた。それだけ価値があるものなら、オーバーホールを頼んでも良いかなとも思う。しかし、多少の遅れはあっても、普通に使えているので、迷いは残る。
 



ーーー12/13−−− S氏の田舎暮らし


 
友人のS氏は、昨年の秋から単身伊那市高遠の一軒家に移り住み、田舎暮らしを始めた。山仲間だった氏に誘われて、今年の納会山行を行なった。納会山行とは、一年を締めくくる登山を行い、合わせて忘年会を行なうものである。会社の山岳部に属していた頃は、那須岳へ登り、その奥の三斗小屋温泉で宴会をするという納会山行をよくやった。

 話は横道に逸れるが、急に蘇った記憶がある。ある年の納会山行で三斗小屋温泉に泊まり、翌日峠道を戻って那須湯元に降りた。温泉街のはずれにある小さな食堂に入って、一杯やりながら昼食を取った。そこへ着物姿のお姉さんが入ってきた。カウンターに座ると、「いつもの、お願い」と言った。さらに「それと、お酒を一本ね」と続けた。亭主が品を出すと、姉さんは遠くを見るような目つきで猪口を口に運んだ。そのシーンが、哀しげに美しく見えた。仕事に出る前の、一つの儀式のようなものだったのか。

 さて、S氏の話に戻る。一年と二ヶ月の間、憧れの田舎に暮らし、晴耕雨読の日々を過ごしたようである。周囲は山間の集落であり、農耕地は広くない。昔は林業と養蚕が主たる産業だったが、いまではそれも無くなった。若者は都会へ出て行き、老人世帯ばかりとなった。そんな地域だから、移り住んだ人は、好意的に迎えられる。畑で作業をしていれば、通りがかりの人が指導をしてくれる。玄関先に野菜が置いてあったりする。脱穀の手伝いを頼まれ、お礼に袋一杯の玄米を貰ったりもする。

 登山の前夜、氏のお宅でささやかな忘年会を行なった。飲み始めてしばらくしたら、「ちょっと見てくれ」と、奥の部屋からある品物を持って来た。三枚のダンボールをテープで繋げて、折りたたみ式にしたもので、開くと多数の写真が張ってあった。氏は昔から写真撮影が趣味である。千葉に住んでいた頃から写真サークルに所属し、今でも発表会に参加している。アマチュア写真展に応募して、賞を取ったこともある。

 ダンボールに張られたのは、風景写真ではない。全て、村人の生活の断片を写したものであった。農作業の風景、郵便配達のおばさん、犬を連れて散歩する老人、祭りの準備、辻での立ち話、防火訓練でホースを持つ主婦たち、など。モノクロに統一されているが、それがかえってリアルな印象を与える。写っている人々の表情が、自然で豊かである。明らかに、カメラマンと被写体との距離が近い。思わず引き込まれてしまう写真群であった。

 ここに至る経緯を聞いた。住み始めてしばらくは様子を見ていたが、徐々にカメラを持って出歩くようになった。顔馴染みになった人を相手に、シャッターを切るようになった。当初は嫌がられるかと思ったが、そうでもなかった。祭りで写真を撮りまくったりするうちに、「写真屋」などと呼ばれるようになった。秋に地域の文化祭があり、そこへ出展の誘いが来た。右も左も分からない状況なので、控えめに小さな展示パネルをダンボールで作って出した、とのこと。

 この文化祭の展示が、大いに受けたそうである。写っている人は大喜びで、中には焼き増しを希望する人もいたとか。その後、かなりの枚数を村人に配ったそうである。村人にしてみれば、自分の写真を、作品グレードで撮って貰った経験など無いであろう(私も無い)。一つの文化的インパクトがあったのではないかと想像するが、大袈裟であろうか。

 実は展示作品を選ぶ際に、撮りためた中からまず自分で200枚ほど選び、それを写真サークルのアドバイザーである、プロの写真家に送って見てもらったそうである。その写真家が選んだものに、自分が気に入ったものを加えて、パネルに張ったのだと。その写真家は、いずれも良く撮れていると評価してくれたそうである。被写体に肉迫しているところが良いと。相手との良好な人間関係が無ければ、こういう写真は撮れない。その点も素晴らしいと。

 ただ、今後の課題として、もう一歩踏み込んだ写真を撮れればさらに良いとのコメントがあったそうだ。それは何かとたずねたら、家の中での生活風景を撮ることだそうである。それはまだまだハードルが高そうだと、S氏は笑った。




ーーー12/20−−−  マツタケ山講習会


 二年前から、地元有志でマツタケ山の整備をしてきた。昨年も今年も、数本しか採れず、まだ成果は上がっていない。当初から、三年くらいはかかると言われてきたから、来年以降に期待したい。

 11月に、松本市四賀地区(旧四賀村)でマツタケ山講習会が開催された。四賀は、この辺りで有名なマツタケの産地である。しかし、高齢化などで、山の先行きは必ずしも明るくない。そこで、地元のマツタケ愛好家グループが、専門家を招いて、講習会を開催することになった。それを新聞で知った我がメンバーが、声を掛け合って参加を申し込んだ。

 会場の公民館には、30人ほどの参加者がいた。講師は伊那市在住の藤原儀兵衛さんという方で、マツタケ採りの専門家である。いろいろ研究をされ、その成果をふまえて各地で講演や指導をされている。著書も出されていて、私も読んだことがある。

 まず一時間半ほど講演を聴いた。今後はますますマツタケの値が上がる。山を適切に整備すれば、必ずマツタケは採れる。山に入ってマツタケを採り、それを販売すれば、老後の収入源になる。税金のアップや年金のダウンなどもへっちゃらだ。と言う下りが印象に残った。

 それから近くの山に移動して、実地の指導を受けた。

 大筋において我々がやってきた整備のやり方と同じだったが、細かい点で、勉強になる事が多かった。自然相手の仕事は、そういった細かい点が大切なようである。長年の経験に裏付けられた、確信に満ちた言葉には、説得力があった。

 山を降りて公民館へ戻る道すがら、「先生はやはりマツタケをたくさん食べられるのですか?」と聞いた。すると、「私は採ることだけに熱心で、食べるほうには関心が無いのですよ」と答えられた。それでも、「マツタケの一番美味しい食べ方をお教えしましょう」と言われた。それはマツタケのお茶漬けだった。

 マツタケ200グラムに醤油を50cc、お猪口に一杯の酒を加えて煮る。それを、冷蔵庫で3ヶ月ほど保存すれば、熟成してさらに味が良くなるが、作りたてでも構わない。ご飯に乗せてお茶をかけて食べればとても美味だと。「酒を飲んだら飯は食べないという輩でも、これを試しに食べさせれば、ズズーっと平らげてもう一杯てなことになるんですよ」と言われた。
 



ーーー12/27−−− 自作の二重窓


 
四年ほど前に、居室の二面のガラス窓の内側に、木製枠にアクリル板を入れた窓を設置した。防寒対策の二重窓である。冬場だけ取り付け、それ以外のシーズンは外して納戸にしまって置く。冬場は窓を開ける必要が無いので、開閉式ではない。レールは一本で、そこに順番に窓をはめ、最後は隙間塞ぎの板を入れる。この窓のおかげで、ずいぶん防寒効果が上がった。

 それをさかのぼる数年前、自作の二重窓の第一号は、以前食堂に使っていた部屋の出窓に設置したものだった。この窓は、カーテンの開け閉めをするために、開閉式にした。つまり、レール二本の引き戸である。使ったのは、ホームセンターで買ったツーバイフォーの材。これが上手く行ったので、その後の展開へとつながった。

 トイレや洗面所の窓にも、木製の枠を作り、エアーキャップ(プチプチ)を張ってはめ込むようにした。一方、風呂場の窓には、発泡スチロールの板をはめる。開口部の防寒対策は、シーズン始めの恒例作業となった。この家の元々の設計が、何故これらの防寒対策の追加を要するようなものだったのか、疑問ではある。

 さて、居室は、以前はロビーと呼ばれていた部屋で、両親が同居していた頃は、来客を迎える時と、年に数度の家族パーティーに使われる程度だった。父が亡くなり、母が東京へ去り、子供たちが家を出てから、家内と二人だけの生活になった。それから、どういう経緯だったか忘れたが、ロビーを居室に使うようになった。

 2メートルの大テーブルで三度の食事を取る。中古の大型テレビを設置し、録画した番組を観る。事務室で使っていたデスクとパソコンを持ち込んで、仕事にも使うようになった。家の中に居る時は、就寝時以外はほとんどの時間をこの居室で過ごす。薪ストーブの稼働率が上がり、夏場の薪作りの作業も増えた。このように、生活のメイン空間となったので、快適さにも目が向くようになった。冒頭に述べた防寒対策も、その一環であった。

 窓は二重化したが、庭に出入りする引き違い戸は、残された課題だった。高さ2メートル、間口2.5メートルの大きなガラス戸なので、外気の冷たさがひしひしと伝わってくる。朝には、ガラスの内側に氷が付いていることもある。ガラス面の断熱をするために、合成樹脂の断熱パネルを、片側の戸に張った。半透明の板なので、屋外の景色が見えなくなるので、片方にだけ張ったというわけ。アルミサッシの金属部分には、断熱テープを張り付けた。このような対策は、本格的ではないのだが、3年ほどこれで我慢した。

 今シーズンに入って、ようやく重い腰を上げ、この引き違い戸も二重化することにした

 これまで手掛けた腰高の窓とは違い、大きな戸なので、難しさが増した。戸を必要最小限の大きさにするため、上部に小窓の列を作り、その下に戸を入れることにした。戸の巾は間口の三分の一とし、三枚横並びにした。冬場でも出入りするので、レール二本の引き戸である。

 こういう作業は、現場の寸法を測り、それに合わせて調整をするので、思いの外時間を取られる。数日かけて、出来上がった。慎重に計画をしただけあって、最後の戸のはめ込みは一発で決まった。不思議なもので、二重戸を入れると、その瞬間に暖かくなったような感じがする。実際の断熱効果は、もちろん有る。夜になって外気温が下がると、はっきりとそれが分かる。これまでカーテンの下からひたひたと押し寄せていた冷気が、無くなった。

 木製の建具は、見た目にも暖かい。その点が、アルミサッシと違う。部屋の雰囲気が、昔風の懐かしい感じになった。木工を生業としているが、建具は畑違い。ちょっとしたDIY感覚である。自分で生活空間を改善するというのは、何とも楽しいことであると、改めて感じた次第。

 これで、居室の三面のガラス開口部すべてが二重窓になった。薪の消費量も、少しは減るだろうか。




















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